困難にぶつかることは「それでもやりたいかどうか」を考える機会を得ること!やりたくないことなら今すぐやめるべし。

「次に青年の特質として挙ぐべきことは、元気(エネルギー)に富むことである。元気のないものは、若年にしてすでに老朽となったと同じであって、青年と称することができない。前にも述べたごとく、青年は常に将来に為すべき多大の希望抱負を持っている。これを遂げて目的に達せんとすれば、元気すなわち勇気の必要が起こってくる。ああ我が事休せり、などと中途で挫折するような者は、決して青年とはいわれない。金銭を失った者は、再び働いて得らるることがある。名誉の損なわれた者は、謹慎によって回復さるる時がある。しかし勇気の失われた者は再び起つの時がないとゲーテが教えた。勇気は老人をも若返らしむ、七度倒れて八度起き上がるという、勇気ある人はすなわち将来ある人である」

新渡戸稲造 「修養」

状況に影響を受ける揺れやすい心

ここに医学部の受験に3度落ちた人がいたとしましょう。彼/女は医師になることを諦め、来年の受験では別の学部を受けようとしています。この時、彼/女の心はどのような働きをしているのでしょうか。

3度の受験失敗により、親から「ダメなやつだ!」と言われたかもしれません。同い年の友人は、自分が3度落ちた大学に1度で受かったのかもしれません。これだけ勉強したのに受からないなんて自分には才能がないのだ、と思うに至ったのかもしれません。

色々な思いが渦巻いていることでしょうが、そこには必ず他者から影響を受けやすい、揺れ動く心があるのではないでしょうか。

もし医師になって苦しみの渦中にある人を救うという確固たる意思があるのであれば、親に何を言われようと、友人が大学に受かろうと、そんなことは何も関係がありません。

親に「ダメなやつだ!」と言われれば少なからずその言葉に影響を受けて「ああ、自分はダメなやつなのかな・・・」と思ってしまうかもしれません。

友人が大学に受かって自分だけ落ちるのであれば、他人と比較する心が生まれ「あの人は受かったのに、自分は受からない。勉強した量は同じくらいなのに自分だけ受からないということは、自分は記憶力が悪いのか、理解力がないのか、情報処理のスピードが遅いのか、どれかなんじゃないか。これじゃあ医師に向いていない・・・」という思いが生まれるかもしれません。

意思があれば状況は関係ない

ですが、そのような思いと医師になって苦しみの渦中にある人を救うという志の間には本来なんの関連性もないはずです。

「医師になって苦しみの渦中にある人を救う、その目的を達成するためであれば手段は選ばない」という確固たる意思を持って事にあたるのであれば、他人から言われた言葉や、友人が大学に受かった落ちたなどと言ったことは全く気にならなくなるはずです。

もしそれが気になってしまい諦める心が生まれるのであれば、「医師になって苦しみの渦中にある人を救う」というのは聞こえのいいお題目であって、心の奥底では「医学部に受かって親に褒められたい」だとか、「医学部に受かったら頭がいい人だと思われて友人達に尊敬されるぞ」とか、「医師になったらモテるだろうなぁ」といったエゴイスティックな欲望を医学部という道具を使って実現させようとしているだけかもしれません。

どのような衝動にかられて「やりたい!」と思っているかを知ることの重要性

「外資系の投資会社で活躍して、世界の経済を元気にしたい!」と言っている人も、心の奥底ではその業界なり会社の平均給与が高く社会的に羨ましがられる存在になれるから志望しているだけかもしれません。

「給与が高いからやりたい」「人気者になれそうだからやりたい」といった条件付きのやりたいことだと、その条件が満たされない場合にとたんに「やりたいこと」ではなくなってしまいます。

「文章を書くことによって生計を立てたい。会社に行かなくていいし、なにより楽に儲けられそうだからね」だと、楽に儲けられない現実に直面した時にキーボードを打つ手は止まってしまうことでしょう。

自分がどのような衝動に駆られて「やりたい」と思っているのかに自覚的になることは、本当に人生をかけて歩むべき道を定める時に大変意味のあることと言えるでしょう。

条件付きの「やりたいこと」はその条件を満たすあらゆる代替物に交換可能です。パートナーのことを好きな理由が「可愛いから」あるいは「かっこいいから」だけ上手くいっていることは通常ありえないでしょう。そのような理由であればこの世の可愛らしい、ないしかっこいい人間であれば誰でもよい、ということになってしまいます。

本当にやりたいことをやってる時、人は不平不満を言ったり、そもそも諦めたりしないはずです。もし少々のことで諦めたくなる気持ちが生まれるのであれば、それは本当に歩みたい道ではないのかもしれません。