上の人は偉く、下の人は適当に扱ってよい?

おば様達の会話から

先日電車に乗っていたら、隣に座っているおば様方がこのような会話をしていました。

「最近の若い子は、子どもをおいて平気で飲みに行くからねぇ」

「そうそう、私達の若い頃なんて子どもが小さい頃なんか飲みになんて行かなかったわよ」

「ちょっと色々言いたくなっちゃうことがあるんだけど。いや、言っちゃいけないとは思うんだけどねぇ」

「そうよねぇ」

おそらくこの会話は、息子さんのお嫁さんがまだ小さな子どもがいるにも関わらず子どもそっちのけで飲み会に行ってしまうことを揶揄しているのでしょう。

時代の違いによる不調和

同じようなことは、会社組織でも起きております。

今の40代~くらいの方々には日本の経済が大変好調な時に一生懸命働き、「とにかく仕事と出世とお金が全て」という価値観のもとサラリーマン人生を送ってきた方も多いのではないでしょうか。

家族との生活を犠牲にしてまで20年以上仕事に全てを注いできた方は、昨今のプライベートと仕事をきっちり分けてワークライフバランスを大切にしようとする若者を見ると「俺/私はこれまでプライベートなんかなしで昼は仕事夜は飲み会、土日もなしで働いてきたのにこいつらはなんだ!」といった思いが芽生えるかもしれません。

あるいは飲み会の場に目を向けてみましょう。

年次が上の者は偉く年次が下の者はこき使ってよいという儒教文化(?)が浸透した日本社会においては、飲み会で上司に気を使わせるようなことがあってはならない。

グラスが減りかけたらすぐさまそれを察知し、上司が気づく前に「次は何を飲まれますか?」と声をかけなければ無礼で使えない人間として認定される。生まれたのが早ければ偉く、遅ければ人間としての格が低いという考えとでも言えるでしょうか。

日本語は上下関係を意識させるように設計されている

次は日本語の言語構造を見てみましょう。

日本語には敬語があります。

年次が下の人間は年次が上の人間に対して敬いの意を表する言葉の使い方をせねばならず、年次が上の人間は年次が下の人間に対して敬いの意を表する言葉の使い方をしなくてよい。

普段使っている日本語という言語は私達の潜在意識に「上の人は偉く、下の人は適当に扱ってよい」とでも言えそうな世界観をプログラムするような構造になっているのです。

そのような言語環境において10年、20年、30年、、、と生きていると「上の人は偉く、下の人は適当に扱ってよい」はこの世界における所与の前提となり、そのような考えは「当たり前のこと」として意識に上がることすらなくなります(潜在意識の深いところに染み込んでいるのです)。

世代間の不調和を和らげるには

今の日本社会を見るに、上の世代の人間は昨今の若者の動きに対して大きな不満を持っており、若い世代の人間は上の世代からくる要求を不当で時代遅れの産物として嫌がっているように見えます。

上の世代の方は、「ああ、自分はこれまで苦労してきた分若者にも苦労させてやりたいという思いにとらわれているのだな」と自己認識を高めることによって、思い通りに動かない若者を見ても穏やかな気持ちで眺めていられるようになるかもしれません。

「自分たちの時代は大変だった分、経済が大変好調で楽しい思いもした。今の若い世代は、自分たちが経験した日本経済の成長を体験できないのだ。生まれた時代が違うだけで、自分もあと20年遅く生まれていたら彼らと同じような考え方になっていただろう」と若者たちに対して思いを馳せることも、「自分は苦労したのに、あいつらはしてない」という苦しみから抜け出すのを手伝うことでしょう。

若い世代の方も同様に、「自分たちがあと20年早く生まれていたら同じような思いを抱いていたかもしれない。上司にずっと気を使わざるを得ない環境で生きていったら、自分も下の人間に対して気を使うように要求したくなるかもしれない」と上の世代の気持ちに対して思いを馳せることによって、「くだらないことばっかり要求してきて、嫌だ」という思いは和らぐでしょう。

苦しみは自分の世界に対する認識から生まれる

結局、苦しみは自分の世界に対する認識から生まれているのです。今の世界に対する認識に執着せず、モノの見方をサラっと変更することが出来れば、他人の動きやコントロールできない外部要因によって苦しむことが減ってくることでしょう。