実体としての「限界」はどこにも存在しない!それは脳が勝手に作り出した妄想に過ぎない。

思考の限界

思考作用による理解に浸りきっている我々人間は、ある対象に名前をつけることによってその対象を理解したつもりになってしまいがちです。ある人に対して「あの人は○○だから」というレッテルを貼ったとしましょう。すると、頭の中でその人は例えば「あの人は私の知る限り17人いる○○な人のうちの1人」というような認識となります。「○○というカテゴリーに属する人」という大雑把な認識となってそれ以上でも以下でもなくなるとでも言えるでしょうか、なんとも味気ない固定化されたデジタルな世界が出来上がります。

通常人間の認識というのは大雑把なものですから、石だったら石、コーヒーだったらコーヒー、部下だったら部下、銀行員だったら銀行員、コンビニ店員だったらコンビニ店員、スターバックスだったらスターバックスと1人1人、1つ1つ全く違うものを同じものとして捉えます。名前をつけてカテゴライズすることでその対象の全てをわかったつもりになってしまうのです。ですが、目の前にある1杯の紅茶の本質を「ダージリン」という5つの文字の並びだけでその深奥まで捉えることができるでしょうか?日本語で言うなら、46個の文字の組み合わせだけでこの世界の全てを説明できると思いますか?

私達は言葉によって運用される思考作用によってこの世界の全てを理解できると思い込んでいます。とりわけ現代人は全ての現象を科学的に考えるようにいわばプログラムされていますから、思考(言葉)によって理解しようとするかそれが出来なければ「そんなものは存在しない」と切り捨ててしまいます。これはある意味そのように考えるようプログラムした現代教育の弊害と言えるかもしれません。

思考作用ではたどり着けない問いがある

そのようにプログラムされた現代人が「人はなぜ生きているのか?」といった思考作用によって理解し得ない問いに囚われてしまいますと、「生きる理由はない」となるか、「それは人間にはわからない」となるか、何も答えが出なくて苦しんでしまうことになります。このうち例えば「生きる理由はない」といった考えにひどく囚われてしまいますと、何かとてつもなく苦しいことや逃げ出したくなることがあった時に「人が生きている理由などないのだから、死んだってかまわない」とばかりに自ら命を絶つという選択をしてしまう方もいるかもしれません。

科学至上主義的な科学信仰はあなたの可能性に限界を設ける

「科学的に説明できないものは存在しない」というのは「私に理解できないものは存在しない」というのとほとんど同義でして、ある意味それは科学に対する強烈な信仰と言えるでしょう。2000年前に稲作のため雨が降るよう神に祈りを捧げていた人たちを笑えますでしょうか?信仰の対象が神から科学やら貨幣やらに変わっただけです。2000年前の人も今の人も、同じようによりどころがないと生きづらい存在なのです。

今現時点で自分の理解できる世界がこの世界の全てであると考えてしまうとこの世界は色彩を失い、まったくもって味気ないものとなってしまいます。あなたが理解している世界の外には、想像を絶するほど広大な世界が広がっています。その可能性を頭から否定せずにはいられないのであればやはりそれは科学に囚われているのであり、その世界は科学に制限されているのです。

思考によって引かれる限界の先へ

あらゆる「べき論」から離れ、あらゆる「見解」から離れ、あらゆる「先入観」から離れて、今この瞬間の世界をありのままに感じるなら、これまでとは全く違う世界が開けてきます。その時あなたは何にも囚われておらず自由であり、心軽やかなのです。