「自分だけが幸せ」はありえない

微細なレベルの変化を感じ取れるようになると他者の変化がわかるようになる

自分の中でうごめく感情や思考の動きに自覚的になってくると、他人がある状況において何を考え、何を感じているのかが微細なレベルでわかるようになってきます。そうでなくとも感受性の高い人であれば、人の考えていることや感じていることというのが敏感に感じられるかもしれません。

他人の感じていることや考えていることがわかるようになってきますと、その人の嫌な部分というのも当然見えてきます。「この人は表面上良さそうな人をふるまっているけど、心の奥底ではこんなことを考えているんだなぁ」といった具合です。

ここで終わればいいのですが、たいていの場合「心の奥底ではこんなに汚いことを考えているくせに、それが他人にわからないようにふるまっているなんて嫌な人だねぇ」というような形で続きます。

己の内面の動きに自覚的になることで他者の気持ちがわかるようになったのはいいものの、その人の嫌な部分が見えるとこちらの煩悩的なエネルギーが反応しかえって嫌な思いをしてしまうことになります。これは、内省的な道を歩む人間には必ず訪れる1つの試練と言えるかもしれません。

精神の発展

相当な修行を積んで常人では考えられない程の境地に達した人でない限り、誰しも心の奥底にはドロドロとした部分があります。自分の意見をどうしても他人に押しつけたかったり、「自分はいいけど、他の人はダメ」という部分があったり、「とにかく人よりも優れていたい、常に自分が一番じゃなきゃ気が済まない!」という部分があったり、自分だけ特別扱いされたい、という思いがあったり。自分のそういった欲求を満たそうとすることは大好きですが、他人のそのような欲求を見ると許せなくなるというのが人間の姿です。例えばこの文章を読んでいる方の中にも、「自分は押しつけがましいところのない穏やかな人なのに、この人は自分の意見ばっかり押し通そうとしてダメな人だ!」というような、自分のいい部分に目を向け他人の悪い部分を取り上げるという心の動きが観察される方もいらっしゃるかもしれません。

他者のドロドロした部分に反応して嫌な気持ちになるのは、己の内にうごめくドロドロした煩悩的なエネルギーが反応してのことです。そこで己の内側を省みず、「あの人が悪い!」と他者をとがめるならば、あたなの精神の発展はそこまでとなるでしょう。

逆にそこで「他人の嫌な部分に目がいって反応してしまうのは、自分のうちにこれまで溜め込んできた煩悩的なエネルギーが反応してのことなのだ」と認識し、内面の観察を継続するならばさらなる精神の発展を遂げることでしょう。

事象の観察と慈悲の心

他者の嫌な部分に触れた時の第一ステップは、科学者のように事象を観察することです。「ある人がこのような言動をとった。それによって、今このような感覚が生じている」と、動物学者が一切感情移入をせずある動物の生態を観察しているかのごとく、ただ観察するのです。そのうちその瞬間に感じていた感覚は消滅し、元のニュートラルな状態へと戻ります。

第二のステップは、慈悲の心を持つことです。「ああ、この人は自分の思い通りにいかないことで怒りにとらわれ、苦しんでいるのだな。可哀想に、この人から苦しみが取り除かれますように」と心から思えるのであれば、あなたは他者がどのような言動をとろうと穏やかでいることができるでしょう。

そしてその穏やかさや優しさは、あなたの雰囲気や表情、具体的な言動としてこの世界に表出され苦しみにとらわれている他者をも穏やかにします。そして結果的に、他者に対する優しい気持ちはあなたに返ってきます。難しい道徳論やキレイゴト(に思えること)を厭う心にとらわれずシンプルに考えてみるとわかりますが、人間は自分に対して親切にしてくれる人に向かって乱暴に振る舞おうとは、普通思えないはずです。

あなたが幸せでいることはあなただけの問題ではない

己の精神を発展させることは、己のためであり他者のためであって、他者のためであり己のためであるのです。自分が怒りまみれの人間であればその場にいるだけで他者にネガティブな影響を与えます。その結果他者の怒り的なエネルギーを呼び覚まし、自分もその影響を受け自分の怒り的なエネルギーはさらに増大します。自分が穏やかであれば周囲に穏やかな影響を与え、その結果他者の穏やかで優しい気持ちを引き出し自分もポジティブな影響を受けます。このように、人は存在しているだけで他者に影響を与え、また他者からの影響を受けています。どういうことかと言うと、あなたが幸せでいることは決してあなただけの問題ではないのです。